大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成元年(ラ)275号 決定

抗告人 山下キヨ 外1名

主文

原審判中抗告人らに関する部分を取り消す。

本件を東京家庭裁判所に差し戻す。

理由

1  本件各抗告の趣旨は、主文と同旨の裁判を求めるというのであり、その理由は、別紙各「申立の実情」記載のとおりである。

2  当裁判所の判断

本件記録によれば、抗告人らは、昭和63年9月27日受付の各相続放棄申述書(東京家庭裁判所昭和63年(家)第11220号、第11224号)において、抗告人らは、被相続人山下孝夫(昭和57年4月16日死亡、以下「被相続人」という。)の死亡当時、被相続人に相続財産が全く存在しないと信じ、かつ、そのように信ずるについて相当な理由があつたので、法定期間の3箇月以内に相続放棄をしなかつたが、昭和63年7月23日ころになつて、被相続人が生前他人の債務の保証をしていたことを初めて知つた旨主張して、本件相続放棄の各申述をしたところ、原審は、昭和63年10月7日、家庭裁判所調査官に「債権者からの催告状況」につき調査をさせ、同調査官が同月26日被相続人の債権者○○金融公庫渋谷支店の管理役Aに面接して作成した調査報告書及びAが提出した関係資料に基づき、原審判理由欄1の(2)及び(3)記載の事実を認定した上、この事実を前提として、抗告人らの相続放棄の各申述をいずれも却下する旨の審判をしたことが認められる。

しかしながら、原審が認定した事実の存在を抗告人らが争つていることは、本件各相続放棄申述書の記載から明らかであるから、このような場合には、原審としては、単に被相続人の債権者からの事実調査等だけではなく、更に進んで抗告人らからも、審問その他の事実調査等をした上で、本件に係る事実関係を把握し、これに対する判断をすべきであつて、原審が抗告人らからの事実調査等をしないで、本件相続放棄の各申述を却下したことは、審判の結論に影響を及ぼす事実の有無につき事実調査等を尽くしていない違法があるものといわざるを得ない。

よつて、本件については、抗告人ら主張の事実の有無につき更に抗告人らの審問その他の事実調査等をした上で審判させるため、原審判中抗告人らに関する部分を取り消し、これを原審に差し戻すこととして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 橘勝治 裁判官 安達敬 鈴木敏之)

別紙

申立の実情(山下キヨ分)

原審判は審判書「理由」1(3)において、昭和52年12月に被相続人が○○金融公庫(以下、公庫という)から呼出され、保証債務の履行を求められたこと、昭和55年1月の公庫からの呼出しに対しては、抗告人が被相続人にかわって公庫に電話をし返済不能である旨を述べていること、被相続人死亡後の昭和59年5月には公庫の職員が抗告人宅に来訪し、その際抗告人が支払不能である旨を述べたこと、を認定している。

しかしながら、これら原審判において認定された事実は抗告人の記憶に無いことであるのみならず、被相続人が多額の保証債務の履行を求められるに至るという事態は、家族に強く責められても仕方のない、いわば被相続人の失態であって、被相続人のプライドの高い性格からして容易に抗告人らにかかる事態を打ち明ける人間ではない。その証拠に原審判も「理由」1(3)の中で認定しているように、長男山下明夫が昭和63年7月23日に公庫から初めて弁済請求を受けた際、明夫は「被相続人からは公庫の借入れに保証したことがないと聞いていたので、保証債務はないとばかり思っていた、と語り、借用証書をみせられると、そんなにあったのですか、という反応を示した」というのであり、被相続人は身内のだれにも保証のことは知らせなかったのである。

したがって、昭和52年12月の公庫からの呼出しに被相続人が応じたということが仮に真実だとしても、その状況について、抗告人が不知であったとしても当然であり、また知りうべき状況もなかった。

まして、昭和55年1月の公庫からの呼出しに対して、仮に呼出しの事実があったとしても、抗告人が被相続人にかわって公庫に電話するということは、いっそう考えられないことである。この事実も抗告人には全く覚えがない。しかも、原審判は、この呼出しに対して抗告人が「二男の収入は月20万円から30万円くらい」だと述べたと認定しているが、当時二男の収入源は接骨の仕事のみであったが、保険による治療を扱っていなかったため、客の入りはきわめて悪く、月に1万円から2万円の収入しかなかったのであるから、抗告人がそのように述べることはありえない。このことからも原審判の事実認定は誤りであること明らかである。

また、昭和59年5月に公庫の職員が抗告人宅に来訪したとの事実も、抗告人には全く覚えの無いことである。仮にこのような事実があったとすれば、被相続人が死亡して平穏に2年も経過しての突然の出来事であり、しかも多額の債務の履行に関することであるから、抗告人の記憶に残らないことはありえないはずであり、身内中で大騒ぎとなるのが当然である。しかし、抗告人を含め相続人のだれもがかかる事実を知らないのである。さらに言えば、公庫が被相続人が死亡してから2年も経過してから、しかも相続人のうち資力のもっともない抗告人に対してのみ履行を求め、他の相続人に対しては、一切保証債務の履行を求めることなく、また保証債務の存在について知らせることすらしなかったというのは、いかにも不自然である。

以上のように原審判のこれらの事実認定は誤りであり、昭和63年7月23日に長男明夫が公庫より被相続人が保証債務を負っていた旨を知らされるまで、抗告人もまたそのような事実を知らなかったものであり、かつ、知らなかったことについて相当性があるというべきであるから、抗告人の相続放棄の申述は熟慮期間内になされた適法なものである。したがって、原審判が抗告人の申述を却下したのは不当である。

申立の実情(山下康夫分)

原審判は審判書「理由」1(3)において、昭和52年12月に被相続人が○○金融公庫(以下、公庫という)から呼出され、保証債務の履行を求められたこと、昭和55年1月の公庫からの呼出しに対しては、妻山下キヨ(以下、キヨという)が被相続人にかわって公庫に電話をし返済不能である旨を述べていること、被相続人死亡後の昭和59年5月には公庫の職員がキヨ宅に来訪し、その際キヨが支払不能である旨を述べたこと、を認定している。

また、「理由」2(1)(ロ)において、原審判は、抗告人は「その妻とともにやや不十分ながら、被相続人や申述人キヨの生活を支えてもきているのであるから、被相続人がどの程度の出費を求められる生活状況にあるかを、被相続人あるいは申述人キヨを通じて知っていることが推認でき」るとし、「仮に被相続人の負債を知らなかったとしても、その事実は上述の事態よりすると知るべきであって、不知の点につき相当性はない」と判断している。

しかしながら、これら原審判において認定された事実はキヨ及び抗告人の記憶に無いことであるのみならず、被相続人が多額の保証債務の履行を求められるに至るという事態は、家族に強く責められても仕方のない、いわば被相続人の失態であって、被相続人のプライドの高い性格からして容易にキヨや抗告人らにかかる事態を打ち明ける人間ではない。その証拠に原審判も「理由」1(3)の中で認定しているように、長男山下明夫が昭和63年7月23日に公庫から初めて弁済請求を受けた際、明夫は「被相続人からは公庫の借入れに保証したことがないと聞いていたので、保証債務はないとばかり思っていた、と語り、借用証書をみせられると、そんなにあったのですか、という反応を示した」というのであり、被相続人は身内のだれにも保証のことは知らせなかったのである。

したがって、昭和52年12月の公庫からの呼出しに被相続人が応じたということが仮に真実だとしても、その状況について、キヨや抗告人が不知であったとしても当然であり、また知りうべき状況もなかった。

まして、昭和55年1月の公庫からの呼出しに対して、仮に呼出しの事実があったとしても、キヨが被相続人にかわって公庫に電話するということは、いっそう考えられないことである。この事実もキヨには全く覚えがない。しかも、原審判は、この呼出しに対してキヨが「二男の収入は月20万円から30万円くらい」だと述べたと認定しているが、当時二男である抗告人の収入源は接骨の仕事のみであったが、保険による治療を扱っていなかったため、客の入りはきわめて悪く、月に1万円から2万円の収入しかなかったのであるから、キヨがそのように述べることはありえない。このことからも原審判の事実認定は誤りであること明らかである。

また、昭和59年5月に公庫の職員がキヨ宅に来訪したとの事実も、キヨや抗告人には全く覚えの無いことである。仮にこのような事実があったとすれば、被相続人が死亡して平穏に2年も経過しての突然の出来事であり、しかも多額の債務の履行に関することであるから、キヨや抗告人の記憶に残らないことはありえないはずであり、身内中で大騒ぎとなるのが当然である。しかし、キヨや抗告人を含め相続人のだれもがかかる事実を知らないのである。さらに言えば、公庫が被相続人が死亡してから2年も経過してから、しかも相続人のうち資力のもっともないキヨに対してのみ履行を求め、他の相続人に対しては、一切保証債務の履行を求めることなく、また保証債務の存在について知らせることすらしなかったというのは、いかにも不自然である。

さらに、抗告人は確かに被相続人健在時より死亡時までの間、キヨと同居していたが、被相続人は昭和53年11月に○○病院に入院して以来、死亡まで入院しており、したがって、抗告人は被相続人死亡まで約3年と数ヵ月の間、被相続人とほとんど接触する機会がなかったのであるから、すくなくともその期間は、被相続人から保証債務の存在を知りうる状況にはないし、また、キヨも被相続人の負債状況をしらなかったこと、及び不知の点につき相当の事情があることは前述のとおりであるから、抗告人がキヨから被相続人に債務があったことを知らなくても当然である。

ところで、原審判は、抗告人がその妻とともに被相続人やキヨの生活を支えてきたのであるから、被相続人がどの程度の出費を求められる生活状況にあるかを、知っていたはずである、と認定しているが、抗告人の唯一の収入源である接骨の仕事の収入が月1万円から2万円であったことは前述したとおりであり、抗告人が被相続人やキヨの生活を支えてはいない。抗告人の妻は会社員であったが、その収入はすべて抗告人との生活で費消しており、被相続人やキヨへ経済的援助を与えてはいない。被相続人やキヨの生活は、健在であったときに被相続人が行なっていた○○火災の損害保険の外交員の仕事(○○代理店)を被相続人が入院したときから二女の中田法子が引き継ぎ、その収入で支えられていたものであり、入院費も親戚や友人の見舞金が月10万円程あったことから、それでまかなったのである。また、昭和57年3月からは、上記損害保険の外交員の仕事を抗告人が引き継ぐようになったが、その収入は月10万円前後であり、接骨の仕事の収入を合わせても11万円から12万円程度であり、それは全額抗告人とその妻の生計に費やされ、被相続人やキヨに対する経済的援助はなかった。キヨの生活はキヨ自らが内職をして蓄えた預金で支えられていたのである。

このように、抗告人及びその妻の生計と被相続人及びキヨの生計は終始独立しており、この点にも原審判の認定に誤りがある。よって、原審判がいうように、抗告人が被相続人がどの程度の出費を求められる生活状況にあったかを知っていたはずであるとはいえず、知る必要もなかったわけである。

抗告人と被相続人及びキヨのコミュニケーションの状況についてであるが、抗告人と被相続人及びキヨとは同居していたとはいえ、抗告人は2階に所帯を持ち、キヨ及び被相続人は1階に所帯を持っていた。そして、被相続人が入院していないときも、被相続人がへビースモーカーであったことから、タバコの嫌いな抗告人は、被相続人に接近することを避けていたし、生来内向的な抗告人は日常キヨや被相続人と話しをすることがほとんどなかった。

以上のように、昭和63年7月23日長男明夫が公庫より被相続人の保証債務の存在を知らされるまでは、抗告人もそれを知らなかったものであり、前述したとおり、抗告人がそれを知るべき状況にあったとはいえず、したがって不知の点について相当性があり、抗告人のなした本件相続放棄の申述は熟慮期間内に行なわれた適法なものというべきであるから、原審判が抗告人の申述受理申立を却下したのは不当である。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例